他律性の自覚

私達は自律というのを重要視して考えている。だが本当に必要なものは他律なのだ。

私達は家を建てるのに山の木を切り、水を生活排水で汚し、大気を自動車によって汚染している。これは近現代から見られることで、昔の私達の先祖の時代にはこのようなことは考えられなかった。なぜか。それは山や川、空気に感謝の思いを抱いていたからだ。だから昔の人達は雨乞いや、祭などをして自然に感謝の念を表現していた。時には首狩りをし、それを奉げ物にもした。首には力が宿っていたから。

私達の生活がなぜ成り立つか。それは私達の生活する日常が海、山、森などの非日常の世界からの超自然的な力によって支えられているからである。超自然的な力をわれわれはいただきながら生きている。さらに付け加えるならば、私達の祖先の霊によって私達は生きている。つまり「死ゆえの生」なのである。他律性の自覚とは、何かしらの犠牲によって成り立っているということを自覚するということでもあるのだ。

バリアフリーという言葉が最近やたらとはやっていますが、本当に敷居をなくしたりすることが必要だと思いますか?自立ということから考えたら確かに必要かもしれませんが、敷居があることによって車椅子で入ることのできない場所がある。一人の力じゃ乗り越えることができない。だがそのときもし誰かが手を貸してくれたらどうだろう?一人でできないことが助けによってできるようになる。
このときに生まれるものは?
そう、自分は一人で生きているのではないということを自覚する。さらには、コミュニケーションがうまれる。このような状況は極端だという人がいるかもしれない。だがこのようなことを今の私達は忘れかけている。

人は一人で生きているのではない。合理性や利便性を追求することが本当にいいことではない。全てのものには意味がある。それを忘れてはいけない。